富山大空襲の思い出
61年前の8月1日は、富山市民にとって忘れられない日です。夕刻から翌日にかけて、B29による焼夷弾で市内のほとんどが焼き尽くされ、約2,700人の犠牲者がでました。
鎮魂の花火大会に先立ち、県護国神社内の鎮霊(しずたま)神社で例大祭と手向(たむけ)祭があり、参列しました。神事のあと、神通川原で紙舟にろうそくを立てて御霊送りをしましたが、たそがれる中でひときわ犠牲者の多く出た場所にたたずみ、往時がしのばれて感無量でした。(写真は万灯祭の行灯)
国民学校一年生
空襲は国民学校一年生の夏休みでした。父は出征中で、女手と弟の5人で川のふちの防空壕にひそんでいましたが、火風が強くなり近くの用水に移り、一晩中、首まで泥水につかって難を避けました。確かに、生きた心地がしない怖いものでしたが、轟音をたてて低空飛行するB29がとてつもなく迫力があり、紅蓮の先の赤い三日月とともに終生忘れえぬものになりました。
焦熱地獄
夜が明けるとまわりは焼け野原。焼け焦げの遺体を見たし、傷ついて応急手当てを受ける人など熱い焼け跡は、この世のものではありません。焼け落ちた我が家を確かめ、母の実家へ向かいましたが、朝から容赦なく照りつける太陽と溶けたアスファルトへ充満する煙に子どもには耐えられず、母と叔母に背負られながら泣いていた記憶があります。
家族愛
二時間ほど歩いたところへ、心配して探しにきた祖父に出会いました。偏屈な性格で祖母ともうまくいっていなかった祖父でしたが、家族の無事な姿に声をあげて私たち兄弟を抱きしめました。体をふるわせて号泣する祖父に、家族のきずなを感じました。
ものに不足する生活
戦後の生活は、日本中が食うことに精一杯で、子どもも労働力でした。とくに商家や農家はそうだったと思います。家へ帰れば仕事の手伝いで、机に向かったり音楽を聴くなどは、父の顔色を見てはばかられました。そんななかでも、モノを大切にし清掃とか挨拶など生きてゆく術は、社会全体のなかで受け継がれており、将来に明るさを感じさせました。
おかげで、モッタイナイが身に付き、耐えることを知り、時間を使う要領を覚え、人並みの向学心を持てたことは幸せでした。
豊かすぎる社会
貧しかった当時からモノがあふれる現状は想像もつかない世界です。豊かな社会の恩恵に感謝していますが、代償の大きさも痛感しています。こと、教育・ひとづくりには、三分の飢えと三分の寒さが必要です。豊かすぎる中で、その状況をつくるのは至難ですが、このままでは日本の将来が危ぶまれます。ひとづくりこそ、これからのキーワードです。
神通川からの道すがら、平穏に生きて来られた幸せに手を合わせながら思いを馳せました。
投稿者 松本弘行 : 2006年08月03日 09:03